対談

◆『 玉 三 郎・舞台の夢 』

1984年7月25日
新書館発行
著者須永朝彦・坂東玉三郎

第一章 「メディア」・「助六」─演劇空間
ギリシア悲劇『メディア』(1983年2月)
ギリシア悲劇と現代

 

須永『メディア』のお話を伺いたいのですが、最初に「これ」というふうにお考えになったきっかけは、何かおありですか。
 

玉三郎 若い頃、ピエロ・パオロ・パゾリーニ監督で、マリア・カラスの『王女メディア』を観たことがあります。カラスはメディアのキャラクターにピッタリでした。印象的だったのは日本の地唄を、カメラがパン(パノラマ撮影)する画面に効果的に使っていたことです。
 ぼくは一度、ギリシア悲劇にさわってみたいと思っていたんですが、ギリシア悲劇はたくさんあるけれど、『メディア』の話がわかりやすいのではないか、ということで決めたんです。
 今まで演じてきた時代はせいぜい400年位前の中世まででしたけれど、それよりも前の時代にふれてみたいという気持があったんですね。
 そういう意味で、ギリシア悲劇を考えていた頃は20代だったと思うんだけど、30代になって、子供がいてもおかしくないような年齢になるまで待っていたところへ、偶然、機会がやってきたものだから。

 

須永 ギリシア悲劇には『アンドロマケー』とか『アンティゴネー』とか、女主人公のものもいろいろありますが、一族の葛藤のようなお話が多いでしょう。
 

玉三郎 そうですね。根源的な宿命的な葛藤。
 

須永 『メディア』は男と女の愛と抗争というので、戯曲として、一番現代性をもっているとぼくも思いますね。
 去年(57年7月)、歌舞伎の海外公演でニューヨークへお出かけでしたが、あの時あちらでご覧になりましたか。

 

玉三郎 ニューヨークで偶然観ました。
 

須永 エウリピデスの原作の形のままで演っていましたか。
 

玉三郎 そうです。それで、ギリシア悲劇を観ているアメリカ人たちが、この作品を過去の歴史的な遺産として観ているのではなく、現実の自分達の感情や感受性で受けとめて舞台に反応しているのがおもしろかったですね。
 役者の言葉に観客がいちいち喜んだり、あきれかえったりするのね。ギリシア悲劇を非常に固苦しく考えていたぼくは、そこが意外でした。

 

須永 日本では、ギリシア悲劇というのは戦前では2回しか上演されていないんです。
 

玉三郎 そうですか。何と何?
 

須永 大正5年に中村吉蔵さんという劇作家が、『オイディプス』を『エヂポス王』と表記して、それを小笠原伯爵邸の庭園で演ったのが1回。それを2年後に新富座にかけたのが1回、それきりなんです。
 あとは、戦後になりまして、1950年代末ですね。それは東大のギリシア悲劇研究会という学生達が始めたものです。商業演劇で演りだしたのは…。

 

玉三郎 ほんの最近でしょう。
 

須永 それも最初はラシーヌなど後世の焼き直しのものが多かったんですね。浅利慶太さんが演出した『アンドロマック』とか。『メディア』もセネカの『メディア』がありますね。それを『冥の会』という狂言の人や山岡久乃さんがお演りになったのは、だいぶ日本語風に直していらっしゃいましたね。それから蜷川幸雄さんの『メディア』。あれがエウリピデスの『メディア』の本邦初演なんですね。
 

玉三郎 それくらいしかないわけですか? ギリシア悲劇の上演って。
 

須永 あとは新劇で俳優小劇場の『オイディプス王』とか民芸の『エレクトラ』くらいかな。鈴木忠志さんの早稲田小劇場の『トロイアの女たち』も変えてありますね。
 白石加代子さんに合わせて書き直している。だから大劇場で本格的に演るというのは、まだわずかしかないですね。

 

玉三郎 それなのに、なんでぼくがギリシア悲劇と思ったのか、自分でもわからない。
 

須永 今度の公演では、玉三郎さんのご希望もあって、また演出の栗山昌良さんのお考えもあって、あんまり神話的な女ではなくて、イアソンという男性に対する恋、それが裏切られて反転していく女の情念というのが主題になるということで、私もなるべくその線にそって台本を作りました。
 

玉三郎 でもギリシア悲劇というのは割とそういうところがあるんじゃないですか。神話の中の人がこれもしたじゃないか、あれもしたじゃないか、と人間的な感情で言っている。あれもしてあげたのに、あなた裏切ったのね、という心情が前にでてくる。「神様」は、ひきあいに出すだけみたいな感じですね。
 

須永 実際に「神様が見ていらっしゃる」という台詞はたくさん出てくるけれど、そういうことあんまり信じていないみたいですね。
 

玉三郎 だって、洋服も買ってやったのに、指輪も買ってやったのに(笑)、そういう感じで神々がひきあいに出されるって、非常に面白いですね。で、メディアが自分の行く先々の国もちゃんと決めて、自分を受け入れることを条件に子供を生ませてあげるとかなんとか。
 

須永 そう、ちゃんと手を打っているのですね。
 

玉三郎 あんなに日常的な感情がむき出しのものかな、とおもしろく思った。
 だけど、ひどいものですね。神々といっても、嫉妬の類においては手段を選ばないのね。エウリピデスの『メディア』は野菜でも肉でもなんでも、加工しないで出した、という気がします。理屈とか哲学でなく、嫉妬の心情のままにね。

 

須永 根源的なものが元の形のまま出ているという感じがしますね。後世のものは、その時代その時代の観客というものを頭において書いているのだと思います。
 絵画では19世紀末ですと、ギュスターヴ・モローが『イアソンとメディア』という絵を描いているんです。これはビザンチン風なあの時代の東洋趣味の雰囲気があります。そのちょっと前にはドラクロワの『怒れるメディア』が有名ですね。
 私はギリシア語が専門でもありませんし、ギリシア悲劇を研究していたわけでもありませんし、にわか仕込みで随分本を読んだんですね。だけど、『メディア』のように、ああいう根源的な男女の愛みたいなものが、現代に通じるような作品は珍しいようですよ。

 

玉三郎 だから、『メディア』というのが、作品として大きな意味をもっているんですね。
 

須永 もうひとつ、『オイディプス』が人気があるのは、誰が読んでもわからないから、ということらしいですよ(笑)。
 ところで、ギリシア悲劇というのは、どうしても固まって長い台詞があるんですね。

 

玉三郎 そうですね。だから、一人がつっかえたら、もう終わり。
 

須永 それとどうですか。ご自分で喋っている時はまだしも、例えば、相手が延々と喋りますね。そんな時、舞台でむずかしくはないですか。
 

玉三郎 ああ、それは、歌舞伎では良くあることなんですね。それぞれ演技をするパートがあってそのパートが終わると控えている。
 

須永 特に女形の方の場合はね。
 

玉三郎 お客さんが演技している人を観ながら、ふと自分の心情で、控えている人のほうに目をやる。ちゃんとその心情にはまっていながら、パートの人の邪魔をしない。それが第一でしょうね。
 

須永 その点では歌舞伎をなさっていることが、たいへんな強味ですね。
 

玉三郎 そういう点ではね。じっと立っているというのは、結構、テンションがいるんですよね。動くということも、勿論大変なことですよ。でも、そのリアクションによって、どんどん動いていくということは、割と緊張度の持続ということでは楽なんですよ。じっと控えて立っているというのは、緊張度が非常に必要で、少しも気が抜けない。
 

須永 衣裳は玉三郎さんのご希望がおありだそうで。
 

玉三郎 ええ。時代考証なり、気候風土の設定は、なるべくギリシアのその時代、つまり今の人の考えているギリシアのイメージに近いほうがいいだろうということで、きちんとしてもらいました。
 

須永 『メディア』はギリシア悲劇の作品の中では後世、取り扱われた率が一番高いんですね。17世紀のコルネイユが書き直していますし、19世紀ではドイツ・ロマン派のグリル・パルツァー(オーストリア人)が『金羊毛皮』という長いものを書いています。これは、コルキスから演るし、第2部はアルゴー船が来てというところから始まって、最後はエウリピデスと同じ部分を演るんですね。3部作、20幕。
 

玉三郎 今度演ってもいいんじゃない?(笑)
 

須永 それを「鶏が鳴く東の国のコルキスの、夷なれども日輪の裔に生れし王女あり、御名をメディアと申すなり……」とかいう具合に浄瑠璃にして、あなたがなさればいいと思う。
 

玉三郎 でも、1日じゃ演りきれないから。
 

須永 第1部は短いんですね。第2部と第3部が長い。
 

玉三郎 じゃ、第1部、第2部を1日で開けて、2日目に第3部もどんと演ったら(笑)。
 

須永 そうですね。それで、これはギリシアの青い空と白い壁というのとは違って、ドイツ風の暗いロマンティシズムが出ているんですね。で、最後まで「金羊毛皮」というのが欲望と不幸の象徴のようにつきまとっていくわけです。メディアが最後までそれを土の中に埋めて隠して持っているわけです。
 そして大詰で、自分に仇なすコリントスのクレオンとかそのお姫様とかをやっつける時に、土の中から掘り出して使う、というところがあるんですね。これは歌舞伎風ですよ。

『メディア』を演じ終わって
須永 2月に『メディア』をなさったわけですけれど、1ヶ月、34回なさって、具体的に何かお感じになられたこととかございますか。

 

玉三郎 ええ、初日の頃は、メディアを演じるのに女としての強さを演じようというところから入っていったんです。ところが、それが入ってゆくにつれて女であることのもろさからくる、反動としての強さというふうに変わったところがあるようです。
 女の芯の強さというよりも、なんていうかころびそうになったときに、それを防ぐためのもの。だから、そのもろくころびかけた時の心情が美しくなきゃいけないと思いました。
 ぼくは『メディア』というギリシア悲劇を論理的に分析して意味づけることよりも、エウリピデスの時代の彼のギリシア悲劇を現代に再現したらどういう感覚を覚えるか、ということを考えました。そうすれば観るものとしてもおもしろいのではないかと思いました。人間が誰かを愛してその気持が裏返って憎悪に走るという、ああいう気持って誰でも少しは持っているんじゃないかと思います。
 そして、ひとつおもしろかったのは偶然だったかもしれないけれど、合唱をうけもつコロスが歌いもし、踊りもしたことです。コロスはオペラとバレエの原型だという説があるんです。

 

須永 『メディア』には愛情が裏返ってゆく過程というか、裏切り方のほとんどの例が出てくる。愛については昔も今もほとんど変わりがないですね。
 だから、特に女性の観客は、大詰で「わあ」って喜ぶ人が多いのね(笑)。もっとも、エウリピデスは女嫌いだったという説もあるんですが。

 

玉三郎 一種、男性に対する批判劇であるみたいなところがあったようですねえ。
 それから子供に対する演技って、ぼくは男でしょう、だから親切になりすぎちゃうようですね。本当の母親というのは真に子供と一体だから、外から見ると、割と邪険に見える。女性はそこいらへんが自然にできるのね。母親って、子供が側にいるときはあまりかまわない、目の前にいないと、子を思う気持ちが出てくるというのがわかりました。

 

須永 発声というか音域というか、ほとんど地声でなさってましたね。
 

玉三郎 『メディア』に出演する前に、ストラトフォードへ行き、ギリシアへ行き、ブロードウェイで『メディア』を観ました。ひとつ感じたのは、むこうの女性はミセスになると、ぼくぐらいの低い声の女の人がいるんですね。シャンソン歌手でも本当に低い声の人がいる。そういう意味でイギリスではミセスがキイキイした声を出すと、品が悪いといわれるそうです。それが、中国、日本になるとすごく高い声になる。インドも高い声で、それより西になると低い声なんですね、不思議ですね。
 

須永 日本では、素敵な女性で声が低すぎたりすると女装の男性かな(笑)、と思われたりして。それから、インドより東の女声が高い地域というのは、西洋に比べて女形が後世まで伝存していますから、演劇的にも玉三郎さんの観察と一致しますよ。
 ところで歌舞伎と、洋物のお芝居では動かす筋肉が違うとお聞きしましたけれど、その話に興味があります。

 

玉三郎 ドレスをさばくのと着物を着るのではずいぶん違います。
 日本の芝居は立って喋るのは少ない。着物は立って耐えるのがむずかしい。着物は巻きついているものだから立って動いていると下がってゆく。すわってちゃんと形をしていないとどんどん落ちていく。ところがドレスではすわって動くのは非常にやりにくいんですね。それと、ドレスの場合は背筋をきちっとのばしていなければなりません。前かがみになるとドレスの前を踏みます。クリノリンのドレスでもローブ・デ・コルテでも裾を踏んでしまいます。
 着物の場合は、ある程度前かがみにするとしおらしくきれいに見えるし、つまずくことはありません。

 

須永 舞台装置は、「シンプルに」という玉三郎さんのご希望が反映されているわけですが、評判がよかったようです。
 

玉三郎 そうですか。舞台装置について言えば外国のオペラの演出家、たとえばゼフィレッリやポネル、ストレーレルが飾りつけると、いくら飾りつけても舞台の上に空間がちゃんとあって飾りこんだという感じがしないんですね。舞台上に、街角の一角を切りとってもってきた、というか。それはやはりヨーロッパに住んでいるからでしょうね。
 日本でヨーロッパの物をやる場合、空間にものを置いて飾っていく感じで風が通らない、空間が狭くなってしまって動きにくい感じがするんです。
 歌舞伎はあんなに飾ってるじゃないかと思う方がいるかもしれませんけれど、歌舞伎の舞台は、四角く切った絵やふすまが置いてあるだけで、動きに邪魔なものは全部はぶいてあるんです。豪華な御殿でもなんでもそうで、ほとんど空間のような気がします。
陣屋などは屋台があって扉がある、その扉も用がなくなるとかたづけてしまう。だから舞台芸術の造形という意味では、日本の歌舞伎も西洋のオペラなども、建築の材料の違いや、身長の差などを超えて、舞台空間の広がりを第一に考える点では同じなんですね。

 歌舞伎と翻訳もの
須永 ところで翻訳劇で、タイトルロールをなさるのは、『椿姫』が最初で、これが2度目ですね。あとは、シェイクスピアの『マクベス』ではマクベス夫人、それから『オセロ』でデスデモーナ。

 

玉三郎 年数にして数えれば2年に一度位の割合です。
 

須永 歌舞伎以外という意味では泉鏡花をたくさん手がけていらっしゃるわけですね。
『天守物語』、去年(57年)は『白鷺』、『夜叉ヶ池』。

 

玉三郎 そうですね。翻訳ものを演っているといっても、それほど演っていないんですね。結局4本です。
 

須永 歌舞伎、泉鏡花、翻訳ものといったように、日本人はとかく区別したがりますけれど、玉三郎さんの意識はもっとご自由なように拝見しますが。
 

玉三郎 そうですね。ぼくは最初は日本舞踊から入って、1年位で歌舞伎の世界に入って、それから二十歳すぎて新劇、新派と演ってきたのですが、子供の頃は歌舞伎俳優になるということよりも、レヴューも観てたし、映画も観てたし、歌舞伎も観てた。
 そういう中から自分が入ったところが歌舞伎でした。演劇方法の基盤というものはそこから生れたもので、そこの振幅を広げたり、狭めたりする、前後左右によって、それが新劇にもなりうるし、新派にもなりえて、あるいは映画にもなり、ぼくの好きなバレエ、オペラを観ることにもつながるわけなんです。
 ぼくにとっては何ができなくて、何ができる。何ができるから何をやっちゃいけない、というものではないと思うんです。かといって、何でもやればいい、という問題でもないけれど、自分の振幅の中からどの波がよくあうかというのを見極めて、もうちょっと広い意味で演劇人として暮らしたい、というところが自分の中にあるんです。
 よく外国の演劇の事情はこうだ、と日本と比較して話されることがあるけれど、そう言ってみれば、日本は少し区別しすぎるかもしれないな、という気がしますね。かといって、区別しないほうがいいとばかりは言い切れませんけれど。そこは問題ですね。

 

須永 演劇には区別をすることによって、磨かれてきたようなところもあるわけですね。
 

玉三郎 お能や狂言を例にとれば、区別することの意味がはっきりしますね。区別することによって能という幽玄の部分があり、能と能との間に間狂言があるわけだから、そういう芸術であるわけですね。
 

須永 能、狂言と申しますと、これはたいへん練磨を重ねないと。歌舞伎もそうですね。そういう意味で歌舞伎でお育ちになったことはお幸せではないですか。
 

玉三郎 ぼくは幸せだと思っています。
 

須永 ここから他のいろいろなものを、お持ちの選択肢から選び、その時その時で…。
 

玉三郎 ええ、そう言ってしまえば非常に簡単だし、歌舞伎の練磨に対して感謝していないようにとられがちですけれど、改めて考えてみれば、そのことがあるからこそ、今の活動ができたのかもしれないとも思います。
 

須永 物事はそんなにはっきりと、口で言い分けられるものではありませんしね。
 

玉三郎 そうですね。だから、ギリシア悲劇なり、新劇なりを演る歌舞伎俳優として、歌舞伎と比べてどうですか、と聞かれてもなかなか一言では言えません。でも、その中で暮らせて幸せだと思うし、また、それでありながらいろんな活動ができるということも、本当に自分は幸せだと思います。
 

須永 これからも、歌舞伎俳優としてだけでなく、要するに演劇人として活躍なさる…。
 

玉三郎 年をとったらその年齢なりの活動をしなければならないのではないでしょうか、若い人を教えたり、もっと広い意味で。日本の場合は、ソリストなり、主演する人が演出するというのは稀のようだけれど、外国では俳優出身の人が、演出をしたり、映画監督になったり、よくしてますよね。
 

須永 ええ、ロベール・オッセンが『ノートルダム・ド・パリ』を演出したり。
 

玉三郎 野外の広場ですね。
 

須永 そういうことは向こうでは普通のことですものね。でも、日本でも歌舞伎の座頭というのは一種の演出家ですけどね。また、これはちょっとあり方が違うけれども、今は歌舞伎にも演出家がついていますけれども、向こうの演出家とは違いますね。
 

玉三郎 作品の形態なり、分類なりという意味での学術的な…。
 

須永 そこが問題ですね。日本は研究家とか評論家とか、これも職分がはっきりしすぎて、その枠を超えようとすると、やりにくいということがありますね。それは日本独得の社会構造かもしれませんけれど。
 

玉三郎 でも、日本において、その枠をとりはずすのがいいのか、とりはずさないほうがいいのか、それは紙の裏表で、どちらがいいのかは言えないようです。
 

須永 それはご自分の判断で、その時その時いい舞台を見せていただければ、われわれ観客はたいへん嬉しいわけです。

 

 

第一章 「メディア」・「助六」─演劇空間
『助六曲輪初花桜』(1983年3月) 
初役「揚巻」は江戸歌舞伎の華

 

須永 3月は歌舞伎座で『源氏物語』の「宇治十帖」を題材にしたいわゆる新作ものの『浮舟』をなさり、もうひとつは江戸歌舞伎の粋みたいな『助六』の揚巻。揚巻は立女形の中でも特に立派な役ですね。
 揚巻について少しお伺いしたいと思います。あれはまず衣裳からしてたいへんですね。

 

玉三郎 そう衣裳の重さがね。それと、貫目というんですけれど、役の貫目。貫禄というんでしょうか。軽々しく見えず、変に重く見えず、ゆったりと重みが見えなきゃならないというむつかしさがあると思います。
 

須永 鬘が立兵庫という立派なものですし、履物も花魁専用の三枚歯とかいう特別なものでしょう。
 

玉三郎 あの衣裳だと、鬘や下駄があれでないとバランスがとれなくて、非常に動きにくいんです。それから、立っているときに、重たいだろうと後ろから人に持たれちゃうと、ころびそうになってしまう。全体のバランスがうまくとってあるんですね。
 

須永 衣裳は五節句の衣裳。最初に海老とゆずり葉の七五三飾を後ろに背負ったうちかけで正月、その下のうちかけは花見幔幕と火焔太鼓に桜を散らして弥生の節句。俎板帯は鯉の滝登りで五月の端午の節句。次に衣裳が代わって出てくるところが七夕ですね。
 

玉三郎 そうです。前帯に短冊を飾ってね。今回はありませんが、助六の水入りになるとまた衣裳を変えて菊。秋の重陽の節句になっています。
 

須永 私、今日は花道のすぐ傍の席で揚巻の出を拝見してまして、玉三郎さんがお出になった時にはお客さんが全員ため息をついてましたね。ハァーッとね。花の吉原の全盛の花魁の道中を、全盛の女形さんがなさっているという、もう歌舞伎でしか見られない演劇的興奮と申しましょうか。
玉三郎さんが新しくお演りになると、また別の魅力が生まれますね。

 

玉三郎 『助六』では子供の頃に禿を演っているんですが、父(14世守田勘弥)の助六のときに禿で出てね。ほんの十か九つかで「坂東喜の字」という名でした。その時から自分で顔の化粧をしはじめたんですよ。それから、前に白玉も演りました。
 

須永 歌舞伎の役はそれぞれの家に伝承があって、皆さん、先輩の方の家に教わりにゆくそうですが、玉三郎さんの場合、今回はどなたに。
 

玉三郎 中村芝翫さんです。前に白玉を演った時も芝翫さんに教わりました。芝翫の兄さんに習うということは、五代目歌右衛門さんの系統になるわけで、この方は希代の揚巻役者といわれた方です。
 この『助六』や『忠臣蔵』の七段目のお軽とか、子供の頃から演りたいと思って聞いているものは、台詞回しがけっこう耳に残っているんです。『助六』の台詞には、いわゆる江戸狂言独特のものがあって、喋ることの面白味を非常に重んじています。

 

須永 あの時代、世界一の大都市だった江戸の吉原の格子先、昼をあざむく歓楽の夜の世界があって、それが芝居となって残っていて、今の我々が観ることができる。それもあなたのような女形の方がなさってね。これは江戸時代の文芸では表現できなかった世界でしょう。今回は片岡孝夫さんの助六、孝夫さんのお父さんの仁左衛門さんの意休ですね。
 『浮舟』は、北條秀司さんが書き下ろしの時から匂宮は中村勘三郎さんの役で、今回は中村屋さんのお相手でヒロインの浮舟ですね。もう1人の恋人の薫大将は片岡孝夫さん。

 

玉三郎 そうです。源氏物語のお芝居は初めてです。匂宮と薫という対照的な2人の男性にはさまれて悩むというもので、前から中村屋さんが演りたいとおっしゃってました。

 古典と新作
須永 新作物をなさるときと、古典の歌舞伎をなさるときでは、どういった違いがあるんでしょうか。

 

玉三郎 言葉が違いますね。新しいものというのは、その作家の方の持ってらっしゃる言葉だから、一人一人独得でしょう。
 たとえば、岡本綺堂先生なら綺堂調、真山青果先生なら青果調。そんなふうに久保田万太郎調、泉鏡花調とか、その作家の方にそれぞれの口調がありますね。いろいろ演らせていただきましたけれど、それぞれに特徴があって、その作家の調子で音としてきちっと書いてある場合、たとえば岡本綺堂先生のものはひとつ前で切っておかないとあとが続きません。鏡花先生の場合は、また違いますし。

 

須永 息つぎの研究が必要だということですか。
 

玉三郎 そうですね。久保田先生の場合は「‥‥‥」と書いてあって、その点々の行間にどんな感情をいれるかによって役作りができてきます。鏡花先生の場合は話がとんでいるでしょう、ひとつの流れの中に時間の飛躍があるんです。それをきちんと心の中で喋っておかないと見ている方がわからなくなると思います。
 

須永 どうしても文章語とお芝居の台詞とは違いますからね。日本語の文章の構成というのは、まず主語があって、述語つまり言いきるのは一番終わりですね。「しました」とか「しませんでした」とか。だから結果がわかりにくい。間に形容詞とかたくさんあって。歌舞伎でも黙阿弥なんかですと、重要なことを先に言わせる場合がありますね。
 玉三郎 それと、江戸時代の終わりに開国をしますね、そうすると西洋のものが入ってきて翻訳される。鏡花先生、久保田先生の作品には倒置法というのが出てきます。純日本風のことをいいながら本当に変わってきていると思います。

 

須永 鏡花の場合、あとにも先にも日本にはああいう文章なり台詞なりを書く人はいないですね。そうかといって、西洋風では決してないし。
 鏡花といえば、4月、5月は鏡花物がつづくわけですね。まず、4月は2日から26日まで中日劇場で『夜叉ヶ池』、3度目ですね。去年の終わりから4月までで3回も演るというのは珍しいと思いますが。

 

玉三郎 あれは空白が多いお芝居で、読んで理詰めにしていくと、実は筋が通っていない所があります。夢の世界の支離滅裂さみたいな魅力がある。あるいは、能の形式として観ていったらおもしろいんじゃないかしら。
 

須永 百合が前ジテ、白雪姫が後ジテというわけですね。
 

玉三郎 それで蟹や鯉のお化けが間狂言でね。とっても色彩的な夢幻能だと思います。
『天守物語』もそうですね。亀姫とのくだりが前で、朱の盤坊が間狂言で、図書之助とのくだりが後になるわけです。鏡花先生のお作は本当に一字一句が好きです。
 富姫の台詞だと「白銀、黄金、珠、珊瑚、千石万石の知行より私が身を捧げます」とか。

 

須永 『夜叉ヶ池』を観ていてぼくはゾクゾクしたんですよ。「義理や掟は人間の勝手づく、我と我が身をいましめの繩よ…袖とて、褄とて、恋路を塞いで、遮る雲の一重もない!」で花道まで出るところがよかった。
 

玉三郎 「生命のために恋は棄てない」。そういうところが素晴らしいですね。
 

須永 めりはりがあって一種極彩色の幻想劇でね、あなたにぴったり合っていらっしゃると思います。
 

玉三郎 おこがましい言い方になってしまいますけれど、鏡花先生の作品が私になぜ合ったかといえば、読んでいて、自分の言いたかったことが書いてあるような気がするんです。だから覚えること、喋ることが苦痛じゃなくて、むしろ気持がいいんです。
 それに鏡花先生の作品には必ず歌が入るし、人形が多い、それも好きですね。

 新派の名作『婦系図』

須永 時代をへだてながらも知己というのでしょうね。そういう作家に出会えたということは俳優として幸せではないでしょうか。もう11本もなさっていらっしゃる。『南地心中』、『白鷺』、『通夜物語』、『辰己巷談』や『稽古扇』、『滝の白糸』。それに『夜叉ヶ池』、『天守物語』、『日本橋』、『山吹』、そして5月に新派でなさる『婦系図』ですね。
 

玉三郎 『滝の白糸』が初めです。次が『稽古扇』でした。ひとつひとつがそれぞれ好きで、お話したいことがありますよ。
 

須永 『滝の白糸』が一番多いですね。あの水芸を演じるところはたいへんなんじゃありませんか。
 

玉三郎 ああ、見ているよりむずかしくありません。
 

須永 そうなんですか、たいへんなのかと思った(笑)。ところで、『婦系図』は大作ですが…。
 

玉三郎 『婦系図』はむずかしくなって、およばずながら…という思いです。新派で『婦系図』というと歌舞伎の『忠臣蔵』みたいなものですから、そういう意味でもたいへんです。
 

須永 「湯島の境内」の場は、お芝居をあまり見ない人でも知っていますね。「別れろ切れろは…」という名台詞とか。それに流行歌にもなってるし。
 

玉三郎 「死んだはずだよお富さん」と同じでね(笑)。
 

須永 芝居としても上演頻度が高いから。それから、ああいうのは外事浄瑠璃というのかしら、湯島の場面で唄が流れるのは。
 

玉三郎 そう、清元の『三千歳』(『忍逢春雪解』)が流れる。
 

須永 「めの惣」の場では、長唄の『勧進帳』。
 

玉三郎 歌舞伎俳優ですから、そういうところが、なお照れくさいんです。それと、いろいろな意味で皆さんがよくご存じだから、たいへんですよ。
 

須永 代々の新派の名優さんがなさってるし、最近では水谷八重子さんのお蔦が皆さんの印象に残っているでしょうしね。
八重子さんの残された型とはまだ別のものをお演りになる…。

 

玉三郎 ある意味で、新派というのは自分のタイプに合わせて役をつくっていいわけです。喜多村緑郎先生がなさったことと花柳章太郎先生がなさったことと、それをアレンジして八重子先生がなさったことと、このお3人のなさったものの中で自分に合うところをひきだしてゆきたいと思うわけです。だから役をつくっていく楽しさというのはありますね。