女形

◆神への憧れが女形の源かも知れない

 女形(おんながた)というスタイル、つまり男が女を演じるというものは、決して日本固有のものではありません。ギリシャ悲劇や中国の京劇、あるいはインドの演劇などの中にも女形と似たものはあります。では、それらはどういう経緯で生まれてきたのか。

 これはもう想像の領域でしかありませんが、地上に神が降り立った時、神は両性具有だったという伝説が様々な場所で残っています。そういう神への憧れが、人間の根底にあったと思います。例えば、いくつかの宗教の起源を紐解いてみると、女が神の声を聞き、それを男が司ったという伝説に出会います。そんな伝説を耳にすると、女形というものは、一人で神の声を聞き、同時に人に説くことができる両性具有性を持つ巫女的存在ではないだろうかと想像してしまいます。

 一見、宗教と女形という結びつきそうにない両者ですが、役者というのは、他人を演じることです。そして、その役になりきるためには、乗り移るという想いが必要な部分もあります。そうした意味では、役者の根元には霊的なもの、神秘的な要素が必要なのかも知れません。 そのように考えていくと、神や宇宙の声を聞き、人に伝えたいという衝動は、演劇的なものにつながっていくと考えることもできるのではないでしょうか。そうした憧れが、両性具有性を持った女形へと昇華していったのではないか。神秘的な話になりますが、そういうふうにでも考えない限り、なぜ男が女をやるのかということを論ずることはできないと思います。

◆女形は、歌舞伎の成熟の証
 では話を現在も歌舞伎に残っている女形に絞って考えてみましょう。

 歌舞伎や舞踊について書かれている文献を御覧になれば、次のような歌舞伎の歴史が記述されています。つまり、「出雲の阿国」による阿国歌舞伎が出来て、少年による若衆歌舞伎を経て、成年男子による野郎歌舞伎となり、現在に至っている。おそらく若衆歌舞伎辺りで、女形の原型が生まれ、野郎歌舞伎でそのスタイルが成熟していったようです。

 女歌舞伎や若衆歌舞伎が続かなかったのは、風紀が乱れたために、幕府の取り締まりを受けたためだということになっています。ですが私は、それだけが理由ではなかったのではないかと思っています。むしろ、そういうスタイル自体に限界があったのではないかと思うのです。

 つまり、少女や少年の劇団では、役も限られれば、脚本の理解度もさほど深いものは期待できない。さらに、年齢制限があったでしょうから、成熟の域に達するころにはもう舞台に立つことが出来なくなっている。そのことが、長く続かなかった原因ではないでしょうか。風紀の問題だけなら、野郎歌舞伎になったから風紀が乱れなかったということはなかったでしょうから。

 作品の深みや役者たちの演技力などが観客に支持されることによって、歌舞伎が現在にまで残ることができたのではないでしょうか。

 そう考えていくと、女形というのも、成りゆき上生まれたというよりは、歌舞伎が演劇としての成熟していった一つの証としての存在意義があったからだと私は見ています。
 

◆女形とは、男が女を描写して生まれる作品 

 ではその存在意義とは何だったのかを少し考えてみましょう。

 女形というのは、男が舞台の上で、女を描写する事です。当然彼が演じる女が、女の様に見えなければ、成り立ちません。ただし、女そのものの描写で良いのかというと、それだけが目的なら女性がやった方が早いわけです。

 では、それが分かっていて、それでもなお男が女をやるのは何故かということについて、こう考えてみてはどうでしょうか。

 男の作家が物語を書くときには、当然男も女も登場人物として書くわけです。その際、その作家は本当に女の気持ちが分かったのかというとそうではなく、自分の中で考え抜いた上で、男と女を書くわけです。そして、素晴らしい作品は、見事に女性が描き切られています。

 つまり、そういう意味で、女形も一種の作品だと見ればいいのだと思います。

 

◆女ではない者が、女を醸し出すニュアンス

 もう一つ例をあげましょう。

 作曲家が「春」を作曲しました。「その人は『春』だったのですか」と尋ねられたら、その人は困ると思いますが、その人が「春」というものを理解して、それを作品にしたことは事実です。

 同様に、女形は女というものを理解した者とします。しかし、作曲家の「春」が、本当の春ではないように、女形の「女」は、現実の女ではありません。

ただ、そこにえもいわれぬニュアンスが醸し出され、女であるように思ってもらえるような瞬間を生むことができれば、そういう「女」が、作品としてこの世にあってもいいと言えるのではないでしょうか。

 楽譜を見ているだけでは、分からないものが、演奏されることによって、そこから春を感じることが出来る。同様に、女形がその様式にのっとり、言葉をしゃべり、衣裳を着て、化粧をして、動くことで、観客は女を感じる。私にはその二つは同じことだと思うのです。

 

◆女形は細かい要素の積み上げ

 ですから、女形の修行というのは、そういうニュアンスを醸し出すために細部を究めていくことが大切です。

細かい動きとか、化粧の仕方、声の出し方、そしてもちろん演技論の中でも述べた演技が成り立つ「感受-浸透-反応」という流れは大切です。

 歌舞伎の場合、そのドラマの時代をしっかり考慮しなければなりません。つまり当時の風俗や女性の生活などを知る必要があります。その結果が、「感受」から「浸透」への時間を左右するわけですから。そして、「反応」はその人の肉体が行うのですから、そのきものを着て、その頭を結った時代の女であれば、こう反応するだろうということを専門的に学習し、女形は修行によって体に覚え込まさなければなりません。それを会得するためには、常に稽古あるのみです。

 ですから、お能の動き、いわゆる仕舞の形とか、文楽の語り口とか、日本舞踊の動きというものをしっかりと修得しなければ、歌舞伎の物語の中の「女」は出てこないわけです。ということは、そうした背景を踏まえた「反応」ができなければ、女形としてその時代の役を表現できないわけです。

 

◆「女より女らしい」という錯覚を生ませる

 時々、女形だから出せる女とか、女性より女らしい女を女形が見せるなどと言われることがありますが、それは良い意味での妄想だと思います。

それはきっと、女形が「作品」だからこそよく見えるのでしょう。

 例えば、ヴィヴァルディの「四季」を聴いて、四季とはあの音楽のことだと言い切ることもできるでしょう。ですが実際の四季は、ヴィヴァルディの「四季」よりも見事に四季なのです。ですから、ヴィヴァルディの「四季」が、本当の四季よりも、四季であるとは言えませんが、作品として完成度が高ければ、人がそれを四季と感じるように、場合によっては本物の四季以上に四季を感じることができる。そういうことだと思います。

 したがって、女形が女よりも女らしいということは、ありえないことです。実際は、女よりも男に近いわけですから。しかし、作品として、そういうことが言えることもあるとすれば、それは、作品に対する女形の想いが、そう見せるということではないでしょうか。

 

◆大切なのは、「女」をどこまで心情的にも感じ取ることができているか

 女形が演じる「女」が、作品になりえるかどうかということは、単に目で見える範囲の描写だけでは足りません。その女形が、「女」を心情的にしっかり感じ取ることができているかどうかが大切なのです。

 つまり、女形が「女」を作品として仕上げていく過程で大切なのは、単なる物真似の描写ではなく、心の眼で見て、感じることができた結果として表現できたかどうかです。それが、できなければ、それは単なる「女装」になってしまいます。

 ただ、それが単なる「女装」と見えず、時には「女以上の女を感じさせるような」作品に感じてもらうためには、先に述べてきたような細部を積み上げていくための研究と稽古、さらには心で感じ取り、それを自分のものにすることが必要なわけです。

 もっと具体的な「作品づくり」に関しては、これからゆっくりと時間をかけてお話出来ればと思っています。