坂東玉三郎は、現代の日本を代表する舞台俳優の一人として、その名は海外にまで広 く知られています。そのため、玉三郎という芸名はこの人個人に帰属するようにも思われがちですが、これは、歌舞伎という伝統演劇の世界において、何代にもわたって名乗られて来た芸名なのです。 
現在の玉三郎は五代目。つまり、玉三郎という芸名を名乗った五人目の歌舞伎俳優と いうことです。先代の玉三郎は彼の養父で、のちに十四代目守田勘弥を襲名しました。坂東姓から守田姓へという、ここらの関係もわかりにくいところですが、守田家と坂東家は、古くから非常に近しい間柄にあったのです。 
歌舞伎における坂東姓の元祖は、元禄の頃まで活躍した道外(三枚目)役の名手、初 代坂東又九郎ですが、のちに、別系の坂東三津五郎の系統が主流となり、坂東家は市川團十郎の市川家、尾上菊五郎の尾上家、澤村宗十郎の澤村家などとともに、江戸の歌舞伎役者として屈指の名家とされる家柄となりました。これに対し、守田家(古くは森田 と書きました)の場合は、いささか性格が異なっています。それは、「座元」とか「太夫元」とよばれ、幕府公認の興行権を持つ家柄だったからです。 
同じ芸能を演じる者たちが一座を作り、やがてそのリーダーが自分の劇場を創設する。 新しい芸能の生まれる時に、共通して起きる現象ですが、江戸時代を通じて唯一の商業演劇だった歌舞伎においても、初期にはこのようにして様々な劇場が生まれました。 
しかし、こうした庶民の娯楽を野放しにすることは、幕府にとって好ましいことでは ありません。そこで、いつの頃からか明確ではありませんが、江戸では中村勘三郎の中村座、市村宇左衛門の市村座、森田勘弥の森田座、山村長太夫の山村座の四座に限って芝居興行を公認する、ということになったのです。山村座は、のちに「江島生島事件」とよばれる不祥事のために取り潰されましたが、残る三座はその特権的地位を保有し、 勘三郎、宇左衛門(のちに羽左衛門)、勘弥の名義は代々世襲されました。そして、興行主、劇場主というところから「座元」とよばれ、また俳優の代表というところから「太夫元」ともよばれました。太夫というのは、もともと朝廷における官位のひとつですが、のちには芸能人の尊称としても使われていた言葉です。 
さて、森田座は木挽町五丁目にあった劇場で、後世に書かれた由緒書によると、創設 は万治三年(1660)、創設者の森田太郎兵衛は小唄や即興の酒落を得意とし、“うなぎ 太郎兵衛”と通称された俳優だったとされています。先に名をあげた初代坂東又九郎をパ-トナーに迎え、又九郎の次男又七を養子にして勘弥を名乗らせ、森田座を譲りまし た。つまり、守田家の元祖は太郎兵衛ですが、勘弥という名跡はこの又七が初代となるわけです。 
その後、又七の兄又次郎の子の又吉が二代目を、その弟(いとことも)の福松が三代 目を、又吉の息子鍋太郎が四代目を、というふうに、一族のなかで勘弥の名跡は継承されて行きました。もともと「太夫元」というのは俳優の代表者ですから、幼少の時から芸事の修業をするわけですが、代々の勘弥は、いずれも音楽や舞踊の素質に恵まれてい たようです。 
一方、新しい勘弥が誕生すると前の勘弥が又九郎を襲名する、という形で、又九郎の名跡も平行して続いて行きました。この時代の太夫元は若手の花形であることが必要でしたが、劇場の運営となると、なかなか若手ではこなせないものがあります。そのため、興行の名義者は勘弥でも、実質的な運営は又九郎を名乗る者がおこなうという形がとられていたのでしよう。資料によっては勘弥を太夫元、又九郎を座元と記していますが、それは、こうした役割分担を呼び分けたものと考えられています。 
 しかし、四代目勘弥時代の享保十九年(1734)、森田座は累積する負債のため、ついに経営が立ち行かなくなってしまいました。当時の劇場は、劇場一軒だけで成り立っているわけではなく、周囲にお茶屋などを従えた歓楽街を形成していましたから、劇場の倒産は芝居町全体の死活に関わります。そこで、三座以外でかつて芝居興行に携わった者の子孫のうちから、希望者を募って籤を引かせ、森田座の興行権を代行させることになりました。この籤に当たったのが河原崎権之助の河原崎座で、以後も森田座が経営不振に陥った時には、必ず河原崎座が木挽町の芝居を代行しました。こうしたことは、のちに中村座や市村座でも起こっており、この制度を「控え櫓(仮櫓とも)」といいます。 
結局、四代目は森田座の再興を果たせずに没しましたが、延享元年(1744)、森田家では親戚筋から養子を迎えて森田座を再興しました。この五代目以後は、劇場主、興行権名義と実質的な興行者が一本化した「座元」として、代々、継承されていくことにな りますが、森田座は、こののちも幕末までしばしば休座し、河原崎座に代行をさせています。もともと、芝居興行は水ものの上に、江戸は火事の多いところでしたから、新築のたびに負債がかさむといった事情があったのです。のちには、座元は一種の象徴的存在となり、出資者である「金方」が座の支配人である「帳元」を腹心に使って経営に参画する、ということにもなりましたが、座元の家筋を守るということは、やはり並たいていの苦労ではありませんでした。そのため、俳優として名を上げた座元がある一方で、生涯を経営に明け暮れた座元も多かったのです。 
五代目以後の勘弥のうち、俳優として名をなしたのは六代目と八代目です。六代目は 狂言作者の中村重助の子で、初代宗十郎の弟子となって沢村重の井から二代目沢村小伝次を襲名しましたが、五代目勘弥の娘婿となり、座元を相続しました。活躍期は十八世紀後半の宝暦・明和期で、勘弥代々のなかでは異色の女方ですが、座元となってからは 立役にも進出しています。七代目はその息子。八代目は、年代にちよっと疑問がありますが、通説では五代目勘弥の子とされています。立役、敵役を本領として所作事(舞踊)も得意とし、再度にわたって森田座が休座している間も、他座の舞台に立ち続けました。 享和元年(1801)、息子の又吉に座元を譲って初代坂東八十助と改名。そして文化五年(1808)、又吉の九代目勘弥が再興した森田座の舞台を勤めて引退しました。八代目勘弥は、又吉の誕生以前、初代坂東三津五郎の子三田八を養子にしていましたが、森田家に実子が生まれたので、三田八は実家に帰りました。のちの三代目三津五郎で、文化・ 文政時代を代表する立役の名優です。そして、勘弥の十代目は、この三津五郎の三男(養子)三八が天保元年(1830)に相続し、翌年、休座していた森田座を再興しました。この三八の森田座には、同じ三代目三津五郎の養子である二代目簑助や初代玉三郎が出演してバックアップをしています。簑助はのちの四代目三津五郎。父に劣らぬ立役の名優でしたが、中年からは中風にかかり、不自由な身体で舞台を勤めました。玉三郎はのちの初代しうかで、伝法な役を得意とした幕末期の名女方です。この時期から、森田家と坂東家は再び密接な間柄となったわけです。 
しかし、三八の森田座も、天保八年には再び控え櫓による興行となり、三八の勘弥は 上方へ行ってそのまま病没したようです。折からの天保の改革で、十三年、江戸三座はすべて浅草猿若町に集中移転させられることになりますが、この時も、本来なら森田座 が据わるべき場所に移ったのは河原崎座でした。 
やがて三代目三津五郎の未亡人が、中絶していた勘弥の名義を四代目三津五郎に継がせたいという願いを起こします。この相続を巡って、九代目勘弥の系統の者と一時は訴訟事にもなったようですが、結局、この訴えは認められ、嘉永三年(1850)に十一代目勘弥が誕生。安政三年(1856)には森田座が再興されました。そして、この十一代目の時代に、「森田」の字が「守田」に改められたのです。 
次の十二代目は、守田座の帳元だった中村翫左衛門の次男です。翫左衛門という人は、 もともと四代目中村歌右衛門の門弟でしたが、マネージメントの才を買われて市村座の帳元となり、のちに守田座に引き抜かれたのです。この時、自分の子を守田家の後継者とすることを条件として出したのですが、長男延太郎が若くして没したため、次男の寿作が守田を相続したのでした。 
この十二代目は、明治になって劇場が猿若町から解放されると、率先して都心の新富町に進出し、劇場機構や接客制度に改革を加えた新しい劇場を作りました。八年には新富座と改称。十一年に新築再開場した時には、華やかな瓦斯灯を備えて夜間公演も可能な劇場となりました。そして、彼はこの劇場に一流の俳優を集めて興行し、当時の演劇改良の風潮に同調した名優九代目市川團十郎に新しい脚本を手掛けさせるかたわら、政財界の名士や文化人、海外からの賓客を迎えて、明治前期の”新富座時代”とよばれる一時代を作ったのです。明治十二年には外国俳優を迎えた公演を催し、明治二十年、歌舞伎が天覧の栄に浴した時も、陰の仕掛人はこの人でした。 
こうした急進的な試みは莫大な負債を生み、晩年は不遇でしたが、彼が天性の大興行師であり、明治前期の演劇界の主導者だったことは間違いありません。 
子供たちのうち、長男は七代目三津五郎となり、その異母弟が十三代目勘弥を襲名し ました。純粋に俳優としての勘弥が初めて誕生したわけです。古典歌舞伎ではニ枚目役で古風な味を見せながら、西欧近代劇や新しい文芸戯曲への理解力にも優れ、自身の研究公演である「文芸座」を主宰するなど、その活躍は目覚ましいものがありましたが、昭和七年、鼻の奇病のため四十七歳の若さで没しました。 
冒頭に書いた、現玉三郎の養父である十四代目勘弥は、この十三代目の姉みきの子で、 十三代目の養子となった人です。江戸前の二枚目役に、養父譲りの妙味を見せましたが、女方から老け役まで広い芸域を持っていました。晩年は、昭和四十一年に開場した国立劇場に多く出演。五十年に没するまで、数々の復活狂言に、その持てる歌舞伎の蘊蓄を遺憾なく発揮しました。 
最後に玉三郎の代々について、ちよっと補足をしておきます。 
初代と四代目についてはすでに触れたとおり。二代目は四代目簑助の前名で、この人は初代しうかの養子だったようですが、のちに離縁となり、明治五年に没したという以外、経歴についてはよくわかりません。そして、三代目は十二代目勘弥の娘、十三代目 には姉に当たるきみが名乗りました。つまり、この玉三郎だけは女性だったのです。 
父の勘弥や九代目團十郎が情熱を傾けた演劇改良のテーマのひとつに、当然ながら女優の育成ということがありました。團十郎は、率先して自分の娘二人を舞台に出しましたが、きみはこの二人に先立つ明治二十一年、坂東喜美江の芸名で、新富座における團十郎の芝居の子役として初舞台を踏みました。翌年玉三郎を襲名。以後も歌舞伎の子役を勤め、成長してからは、兄弟たちと若手歌舞伎に出演して舞踊を演じたり女役者の一座に加わったりしていました。 
女役者というのは江戸時代のお狂言師-町の踊りの師匠で、かたわら大名家の奥向き に上がって女性だけで歌舞伎を演じた人たち-の流れを汲む役者たちです。当時はまだ、男優が男の役を、女優が女の役を演じるふつうの芝居というものがなかったのです。 
やがて明治三十七年、アメリカのセントルイスで開かれる万国博覧会に、日本から喫茶店を出すということになり、選ばれて姉のみきとともに渡米。日本の踊りを披露したりして大そうな評判になりました。そして、博覧会のあとも演劇視察のためニューヨークにとどまり、翌年、この異国の地で急逝したのです。わずか二十二歳。いかにも草創期の女優らしい、果敢な生涯でした。

石橋健一郎

守田勘弥と守田座の歴史